吹奏楽部の歴史

 吹奏楽部の創部は、正確には分かっていませんが、おそらく1957年。今年(2001年度)で44年目となる、伝統ある部です。
しかし、この吹奏楽部には前身がありました。

『音楽部の誕生』
 大正6年、開校20周年を迎える頃には既に「音楽部」という名で活動を開始していました。当初はひたすら声楽の練習と発表を行い、さまざまな演奏会に行ったり専門家を招いて演奏を聞いたりと、なかなか積極的に活動をしていたようです。
しかし、大正12年、相模湾を震源地とする関東大震災が発生し、横浜は一瞬にして瓦礫の廃墟と化してしまいました。被害はとても大きかったのですが、ただ不幸中の幸いは、当時学校が建っていた藤棚地区の被害がごく軽微だったことです。そのため、各地から罹災者たちが殺到し、学校は一時3万人もの人の避難所と化しました。
そうした折も折、学校当局の肝煎りで、「慰安音楽会」が開催されました。演奏する生徒も、それを聴く聴衆も、皆不幸を背負っていたのですが、純真な少年達の歌声や弦の音色にどれだけ慰め力づけられたことでしょう。
時代は昭和になり、従来は声楽一本で活動していた音楽部も、ハーモニカを加え、新たにハーモニカバンドを編成し、めざましい演奏活動を行いました。時にマンドリンを加えたりと、なかなか盛んだったようです。
けれども、次第に軍靴のひびきが高まってゆき、レパートリーに戦時色が加わるにつれ、部員数もだんだん減少の兆しを見せはじめてゆきます。
 
『喇叭鼓隊の誕生』
 既に昭和初頭に活躍していましたが、戦時色がみられはじめたこの時期に正式にクラブ化し、まず“喇叭隊”として誕生しました。その後、輝かしいラッパ吹奏に花を添えるべく、ブラスバンドをつくる話がおこったものの、経費等の点で立ち消えになってしまった。代わりに“鼓隊”が誕生し、新たに“喇叭鼓隊”として時局マーチを奏でることになりました。

 部活動が盛んになりだしたのもつかの間、時代は第2次世界大戦に突入し、部活動は暗黒の一時期、休止せざるを得ませんでした。
また、今次大戦の敗北は、同時に文化力の敗退でもありました。戦後の爪痕は大きく、戦後の価値観の違いに皆大いに悩みました。
めまぐるし動きつづける社会の中、安住の地を求め何回か移り動き、現在の希望ヶ丘の地に移ると、いよいよ文化的基礎は固まり、部は発展の一途を辿ることになります。

 戦後、音楽部が活動を再開し、数年経ち1957年、吹奏楽部が創部。音楽部は他に合唱部・室内楽部・ギター部etc…に枝分かれし音楽部という名は消えました。現在は上記に加え軽音楽部・フォークソング部の6つの部が音楽の部として活動中です。
(参考文献:希望ヶ丘高校百年史)